2022年12月4日日曜日

慈観寺

 

千光寺山ロープウェイ(写真は山頂駅側)


山門

看板

本堂

説明版

尾道の街並みや尾道水道を一望でき、日本百景にも選ばれている千光寺山(大宝山)は、山頂まで千光寺山ロープウェイで登ることが出来ます。
その千光寺山ロープウェイのふもと側にある山麓駅のすぐ脇にある慈観寺(時宗)は、貞治元年(1362)慈観上人の開基と言われ、4月末頃には庭一面に牡丹が咲き「ぼたん寺」として親しまれています。
本尊の阿弥陀如来が安置されている本堂は木造瓦葺きで二重屋根。記録によると檀家である幕末期の尾道の豪商・橋本吉兵衛(竹下)が、天保飢饉による救済事業として本堂再建工事を実施し、困窮者を雇って支援したそうです。
橋本吉兵衛は、碁聖・本因坊秀策の支援者として知られた人物で、嘉永3年(1850)に慈観寺本堂再建工事の竣工記念として慈観寺にて秀策と修行時代の秀策を鍛えた元本因坊家塾頭の岸本左一郎との対局が開催されています。
当時、秀策は本因坊家跡目就任の報告のため帰省中で、対局は六段昇段と跡目相続を祝した記念対局でもありました。

爽籟軒

 

爽籟軒入口

明喜庵

庭園

かつては海水を直接引き入れていた

庭園

 江戸時代の広島藩では政治は広島、経済は尾道と言われ、北前船が寄港し大阪、九州との交易地でもあった尾道は経済の拠点として大いに発展してきました。
 その尾道の豪商たちは、江戸時代後期から大正時代初めにかけて斜面地や海岸沿いの風光明媚な場所に「茶園(さえん)」と呼ばれる別荘を建て文人たちの交流の場となります。
 日本庭園として一般公開されている「爽籟軒」(そうらいけん)は、尾道を代表する豪商橋本吉兵衛家(角灰屋)の茶園で、これを造った橋本竹下(七代橋本吉兵衛徳聰)は、本因坊秀策を見出し支援した人物としても知られています。
 爽籟軒は、建設当時は現在よりも大きな敷地を誇る豪邸だったそうです。
 庭園内の嘉永3年(1850)に建築された茶室「明喜庵」は、京都山崎にある千利休ゆかりの国宝「妙喜庵待庵」の写しとして国内に数例しかない貴重なもので、庭園が尾道市に寄贈された平成19年(2007)に庭が市の名勝へ、明喜庵が市重要文化財に指定されています。
 かつて庭園には直接瀬戸内海から海水が直接引き入れられ干満による水位の変化が楽しめたほか、船で直接庭に乗り入れることも出来たそうです。
 ちなみに「爽籟」とは爽(さわ)やかな瀬戸内の風の響きという意味です。
 爽籟軒には頼山陽など竹下と交友のあった文人が多く訪れていたと言われ、秀策も帰郷の際にはここを訪れていたようです。秀策は敬愛する竹下のことを「茶園の大人」と称していました。


2022年11月30日水曜日

糸崎神社 本因坊秀策の碑

 

糸崎神社

本因坊秀策顕彰碑

 広島県三原市の三原駅から国道185号(旧国道2号)を東へ約4kmほど行った国道沿いにある糸崎神社には本因坊秀策の碑が建立されています。
 秀策は出身地、因島の領主である三原城主浅野甲斐守忠敬に見いだされ、その支援によって本因坊門となっていて、三原はゆかりの地になります。
 文久二年に亡くなった秀策について死後、遺徳を偲び同じ芸州出身で弟弟子の石谷広策が中心となり顕彰活動が行われ、広策が編纂出版した秀策の名棋譜集「敲玉余韻」は、プロアマ問わず棋士たちに愛読され明治以降の囲碁界に大きな影響を与えたほか、「秀策口訣棋譜」(明治37年刊行)の、あとがきに秀策の事を碁聖と記したことがきっかけで、本因坊秀策は、江戸時代三人目の碁聖と称されるようになります。
 広策は秀策の顕彰碑建立のため、地元広島、三原、尾道、江戸とゆかりの地を駆けまわり、浄財を集めて糸崎神社へ顕彰碑を建立しています。碑は漫画『ヒカルの碁』にも登場しています。

本殿

御調井

 糸崎神社は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后を祀る神社で、社伝によれば天平元年(729)に豊前国宇佐八幡宮より応神天皇の産髪を勧請し創建されたと伝えられています。
 瀬戸内海に面するこの場所は「長井の浦」と呼ばれる風待ちの浦として古くから知られてきました。
 境内にある御調井(みつぎい)と呼ばれる井戸は、その昔、西行された神功皇后が長井の浦に寄られた際、この井戸の水が献上された故事にちなみ「御調井(貢井)」と呼ばれるようになったと伝えられています。
 また糸崎の語源については、長井の浦が「御調井」にちなんで井戸崎(いどさき)とも呼ばれていたのが転じたそうです。
 中世には小早川氏や毛利氏、福島氏などの庇護を受け、元和8年(1612)に本殿が炎上しますが、寛永元年(1642)には広島藩浅野家によって再建されています。現在の本殿は宝暦2年(1752)に焼失し、同9年(1759)に再建されたものだそうです。

万葉集の歌碑

「万葉集」にも長井の浦の詩が三首詠まれていて、境内その一首の碑が建立されています。

 帰るさに妹に見せむに わたつみの沖つ白玉拾(ひり)ひて行かな
(帰りには妻に見せるために 海岸の美しい貝や小石を拾って行こう)

 神功皇后は三韓に攻め入った際に、後の応神天皇を身ごもっていて、しかも臨月だったと言われ、海辺の石でお腹を冷やして出産時期を遅らせ、帰国後に無事出産したという伝説があり、子授・安産の神様として崇められています。
 「万葉集」が編纂された奈良時代には、すでに長井の浦は都から新羅などに向かう船の中継地であったと思われます。そして、詩は神功皇后の子安石・鎮懐石の伝説が天平時代にはすでに広まっていた事を示しています。

神門

 糸崎神社の神門は、かつて三原城内にあった侍屋敷門の一つで、明治8年に移築されています。現存する数少ない三原城の遺構の一つで、貴重な建物として三原市重要文化財に指定されています。

クスノキ

 境内にそびえる御神木のクスノキは樹齢推定500年で、広島県で一番、中四国地方でも3番目の大きさを誇り、市の天然記念物に指定されています。
 現在は埋め立てられ現存していませんが、かつて神社のすぐ前に船着き場があり、日没後にこの大楠を右回りに8度回り神社から出ようとすると、夜の海からおらび船と呼ばれる船が神社のすぐ前の船着き場にたどり着いて沖へと連れ去られてしまい、また、左回りに回ると宝船がやって来るという伝承が残されています。
 かつては夜泪き松と呼ばれる松の巨木が境内にあり、夜泣きする子にこの松の皮を煎じて飲ませると夜泣きが収まると言われ、また、万病にも効くとされたそうです。

秀策の父親の生家の菩提寺 西福寺

 

西福寺山門

本堂

境内から眺める西野

安田家之墓

古い安田家の墓石

 三原市西野にある曹洞宗・西福寺は元亀年中(1570~)安田新兵衛忠信氏という人物により創建された寺で、当初、安田家だけの氏寺だったそうです。
 安田家は代々庄屋を務める名家で、幕末期の当主の次男で因島の桑原家に入り婿した桑原輪三という人物が、碁聖本因坊秀策の父親です。
 文政12年(1829)輪三の二男として生まれた虎次郎は幼い頃に母から碁を習い、六歳の頃、尾道の豪商橋本竹下(吉兵衛)に才能を見出され、その紹介で三原城主浅野甲斐守忠敬と対局。
 その後もたびたび城へ召し出され忠敬の碁の相手をしていたそうで、棋力を認められた虎次郎は竹原の宝泉寺住職葆真和尚に預けられ碁や漢学の教えを受けています。
 この頃より虎次郎は安田栄斎と名を改めていますが、桑原姓から父の実家である安田姓へ変えたのは、代々庄屋を務める安田家のほうが体面がよかったからと考えられています。
 城に召し出されるようになった時期は、遠い因島ではなく、安田家で暮らしていたのではないかという説もあります。
 西福寺境内の墓所には安田家の墓があります。詳しく調べれば秀策の時代の人物の墓もあるのでしょうが、取材時はそこまで調べておらず分かりませんでした。
 また、安田家屋敷跡には碑が建立されているそうですが、取材時には見つけることが出来ませんでした。


2022年11月29日火曜日

三原城

 

三原城跡。上部は新幹線駅舎

天守台


三原城図面(駅構内)

天守台

駅から眺める堀

 碁聖・本因坊秀策ゆかりの広島県三原市にある三原城は、天主台跡にJR西日本三原駅および山陽新幹線の三原駅があるという全国的にも珍しい城跡です。
 明治期に全国で鉄道建設が始まると用地買収の容易さなどから海岸沿いに線路が敷設されるケースが多く発生し、三原でも現在は埋め立てられ海岸まで300mほど離れていますが、当時海に面していた城跡を鉄道が貫通し駅が造られたのでしょう。
 三原城は戦国時代に毛利元就の三男、小早川隆景により整備された城で、水軍を擁する小早川らしく海に面し船も直接出入り出来る三原城は、満潮時には海に浮かんだように見えることから浮城とも称されていました。
 江戸時代初期の元和5年(1619)、改易となった福島正則に代わり浅野長政の次男、浅野長晟が広島藩へ移封されると、三原城へは支城として一門で筆頭家老の浅野忠長が入り幕末まで続きます。
 幕末期の三原浅野家第10代当主・浅野忠敬(ただひろ)は囲碁好きで、領内の尾道で因島出身の桑原虎次郎という7歳の碁の強い少年が活躍しているという噂を聞き、尾道の豪商、橋本吉兵衛を通じて虎次郎を城へ召し出します。その虎次郎こそ、後の本因坊秀策です。
 虎次郎の棋力に感心した忠敬は、度々城へ召し出し碁の相手をさせますが、虎次郎はこの頃より名主を務める父の実家の姓である安田栄斎と名乗り、茶坊主として城へ出仕しています。
 忠敬の手配で天保八年(1837)に江戸へ出て本因坊門となった栄斎は、天保10年(1839)には入門後僅か二年、11歳という若さで初段となります。
 周囲の薦めもあり、翌年一時帰郷した栄斎に対し、忠敬は財政難の中、五人扶持の家禄を与えています。
 その後、栄斎は秀策と名を改め16歳の時に四段へと昇段し、二度目の帰郷を果たしますが、この時、浅野忠敬は秀策の家禄を増禄し功績を讃えています。
 秀策はその恩に報いるため、約一年間故郷に滞在して忠敬や城内の家臣たちと碁を打っていたそうです。
 その後、五段へ昇段した秀策は、本因坊家跡目となるよう打診されますが、自身はあくまでも三原浅野家から扶持をもらっている身であると固辞、そのため本因坊家は広島藩浅野本家へ断りを入れたうえで浅野忠敬の了解を取り付け、ようやく秀策に跡目となる事を承諾させたそうです。
 弘化4年(1847)秀策が19歳の年に、秀策が跡目となる事に尽力した本因坊丈策、隠居の丈和が相次いで亡くなり、本因坊秀和が第14世に就任、秀策は正式に跡目となり六段へと昇段します。
 そして嘉永2年(1849)に御城碁へ初参加し、以降、秀策は最後に参加する文久元年(1861)まで、前人未到の御城碁19連勝という大記録を打ち立てていくのです。
 秀策は、嘉永3年(1850)に跡目就任報告のために帰郷し、安政四年(1857)にも四度目の帰郷をしていますが、文久二年(1862)にコレラのために惜しまれつつ亡くなっています。
 三原城は、後に碁聖と讃えられる本因坊秀策にとって、その道を切り開く重要な起点となった場所でもあるのです。