2021年12月13日月曜日

谷中霊園

 

谷中霊園入口(日暮里駅側)

園内の桜並木
五重塔跡
天王寺本堂と銅造釈迦如来坐像

東京大学医学部納骨堂(元大仏設置場所)

 東京都台東区谷中七丁目にある都立霊園「谷中霊園」は、かつては、霊園に隣接している天王寺の寺域の一部であり、現在は桜の名所としても親しまれています。
 もともと天王寺の参道であった中央園路は、通称「さくら通り」ともよばれ、春には園路を覆う桜の枝に花が咲き、まるで桜のトンネルのようになります。
 都立谷中霊園の他に隣接している天王寺墓地と寛永寺墓地も含めて、旧名称の「谷中墓地」と呼ばれる場合も多く、約10haの墓域にある、およそ7,000基の墓の中には、囲碁棋士や囲碁愛好家を含め著名人の墓が多くあります。
 天王寺は、文永11年(1274)、日蓮宗の「長耀山感応寺」として開山し、江戸幕府が開かれると徳川家光や春日局の庇護を受けていますが、元禄11年(1698)には幕府の弾圧により天台宗へ強制的な改宗を行っています。
 元禄13年(1700)より幕府の許可を受け富くじが興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として大いに賑わいますが、天保13年(1842)に天保の改革で富くじ興行は禁止されています。
 境内に寛永21年(1644)に建立された五重塔は明和9年(1772)の大火で一度焼失した後に再建。高台にあり遠くからも眺めることが出来きた事から名所として知られていました。
 幕府崩壊後、彰義隊が天王寺へ駐留したものの、上野戦争(1868)において塔は戦火を免れ、幸田露伴の「五重塔」のモデルとしても広く名を知られていきます。
 その後、保存管理のため塔は東京市へ寄贈されますが、昭和32年(1957)心中による放火で焼失し、現在は礎石のみが残されています。
 また天王寺境内にある銅造釈迦如来坐像は、元禄三年(1690)に建立されたもので、当初旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側にあり、明治7年(1874)に谷中墓地開設のため同墓地西隅に移設。
 江戸名所図会や新撰東京名所図会に記載されるなど天王寺大仏として親しまれてきて、昭和八年より現在地へ移転しています。
 なお、明治7年より像が設置されていた場所は現在、東京大学医学部納骨堂となっていますが、仏塔の形をした建物の基壇は、旧大仏のものをそのまま使用しているそうです。
 谷中墓地は、明治7年(1874)、明治政府が天王寺の寺域の一部を没収して、東京府管轄の公共墓地として開設(昭和10年(1935)に谷中霊園へ改称)しますが、その背景には政府が進める神仏分離政策によって神式による葬儀が増えたものの、寺院が所有している墓地以外の埋葬場所が不足していたのが理由と言われています。
 囲碁の愛好家だった徳川慶喜も神式の埋葬を希望したため寛永寺墓地ではなく谷中霊園側に墓が建立されたそうです。
 以下に谷中霊園(天王寺墓地と寛永寺墓地含む)に眠る囲碁と関わりのあった方を紹介します。なお、リストは新たな発見があり次第、随時更新します。

囲碁と関わりのあった人物
〇棋士
 中川亀三郎 … 本因坊丈和の三男。方円社二代目社長。
 中川千治  … 二代目中川亀三郎。四代目社長。
 中川新   … 中川千治の門人で養子。小野寺新。
 都筑仙子(仙芝) … 明治期の囲碁棋士で五段。
 都筑米子  … 明治期から昭和初期にかけて活躍した女流棋士。
 吉田悦子  … 女流棋士。本因坊秀和門下。四段
 吉田妙子  … 吉田悦子の妹。二段。

〇囲碁愛好家
 徳川慶喜  … 第十五代征夷大将軍。囲碁を趣味とする。
 渋沢栄一  … 日本資本主義の父。囲碁界の支援者。
 渋沢敬三  … 渋沢栄一の孫で後継者。一時期囲碁に熱中。
 渋沢正雄  … 渋沢栄一の三男。
 穂積歌子  … 渋沢栄一長女。プロに囲碁の手ほどきを受ける。
 高田慎蔵  … 高田商会創業者、囲碁界支援者
 高田たみ子 … 慎蔵の妻、囲碁界の有力スポンサー
 古島一雄  … 政治家、ジャーナリスト、囲碁史上初の観戦記
 鳩山一郎  …
 鳩山和夫  … 鳩山一郎の父。政治家。方円社棋士に指導碁を受ける。
 鳩山春子  … 和夫の妻で一郎の母。一郎に囲碁を教える。
 鳩山威一郎 … 鳩山一郎の長男。外務大臣。囲碁が趣味。
 稲山嘉寛  … 日本棋院第6代総裁。経団連第5代目会長、新日本製鉄初代社長。

〇囲碁界関係者
 浅田宗伯 … 幕府典医、宮内省侍医医師、「浅田飴」処方。著書で囲碁の日本伝来について言及。
 巻菱湖  … 江戸時代後期の書家。「菱湖書体」は将棋の駒の書体として使われる。
 村田保  … 本因坊秀哉の叔父。政治家。水産振興に貢献。




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