爽籟軒入口 |
明喜庵 |
かつては海水を直接引き入れていた |
江戸時代の広島藩では政治は広島、経済は尾道と言われ、北前船が寄港し大阪、九州との交易地でもあった尾道は経済の拠点として大いに発展してきました。
その尾道の豪商たちは、江戸時代後期から大正時代初めにかけて斜面地や海岸沿いの風光明媚な場所に「茶園(さえん)」と呼ばれる別荘を建て文人たちの交流の場となります。
日本庭園として一般公開されている「爽籟軒」(そうらいけん)は、尾道を代表する豪商橋本吉兵衛家(角灰屋)の茶園で、これを造った橋本竹下(七代橋本吉兵衛徳聰)は、本因坊秀策を見出し支援した人物としても知られています。
爽籟軒は、建設当時は現在よりも大きな敷地を誇る豪邸だったそうです。
庭園内の嘉永3年(1850)に建築された茶室「明喜庵」は、京都山崎にある千利休ゆかりの国宝「妙喜庵待庵」の写しとして国内に数例しかない貴重なもので、庭園が尾道市に寄贈された平成19年(2007)に庭が市の名勝へ、明喜庵が市重要文化財に指定されています。
かつて庭園には直接瀬戸内海から海水が直接引き入れられ干満による水位の変化が楽しめたほか、船で直接庭に乗り入れることも出来たそうです。
ちなみに「爽籟」とは爽(さわ)やかな瀬戸内の風の響きという意味です。
爽籟軒には頼山陽など竹下と交友のあった文人が多く訪れていたと言われ、秀策も帰郷の際にはここを訪れていたようです。秀策は敬愛する竹下のことを「茶園の大人」と称していました。
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