糸崎神社 |
本因坊秀策顕彰碑 |
広島県三原市の三原駅から国道185号(旧国道2号)を東へ約4kmほど行った国道沿いにある糸崎神社には本因坊秀策の碑が建立されています。
秀策は出身地、因島の領主である三原城主浅野甲斐守忠敬に見いだされ、その支援によって本因坊門となっていて、三原はゆかりの地になります。
文久二年に亡くなった秀策について死後、遺徳を偲び同じ芸州出身で弟弟子の石谷広策が中心となり顕彰活動が行われ、広策が編纂出版した秀策の名棋譜集「敲玉余韻」は、プロアマ問わず棋士たちに愛読され明治以降の囲碁界に大きな影響を与えたほか、「秀策口訣棋譜」(明治37年刊行)の、あとがきに秀策の事を碁聖と記したことがきっかけで、本因坊秀策は、江戸時代三人目の碁聖と称されるようになります。
広策は秀策の顕彰碑建立のため、地元広島、三原、尾道、江戸とゆかりの地を駆けまわり、浄財を集めて糸崎神社へ顕彰碑を建立しています。碑は漫画『ヒカルの碁』にも登場しています。
本殿 |
御調井 |
糸崎神社は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后を祀る神社で、社伝によれば天平元年(729)に豊前国宇佐八幡宮より応神天皇の産髪を勧請し創建されたと伝えられています。
瀬戸内海に面するこの場所は「長井の浦」と呼ばれる風待ちの浦として古くから知られてきました。
境内にある御調井(みつぎい)と呼ばれる井戸は、その昔、西行された神功皇后が長井の浦に寄られた際、この井戸の水が献上された故事にちなみ「御調井(貢井)」と呼ばれるようになったと伝えられています。
また糸崎の語源については、長井の浦が「御調井」にちなんで井戸崎(いどさき)とも呼ばれていたのが転じたそうです。
中世には小早川氏や毛利氏、福島氏などの庇護を受け、元和8年(1612)に本殿が炎上しますが、寛永元年(1642)には広島藩浅野家によって再建されています。現在の本殿は宝暦2年(1752)に焼失し、同9年(1759)に再建されたものだそうです。
万葉集の歌碑 |
「万葉集」にも長井の浦の詩が三首詠まれていて、境内その一首の碑が建立されています。
帰るさに妹に見せむに わたつみの沖つ白玉拾(ひり)ひて行かな
(帰りには妻に見せるために 海岸の美しい貝や小石を拾って行こう)
神功皇后は三韓に攻め入った際に、後の応神天皇を身ごもっていて、しかも臨月だったと言われ、海辺の石でお腹を冷やして出産時期を遅らせ、帰国後に無事出産したという伝説があり、子授・安産の神様として崇められています。
「万葉集」が編纂された奈良時代には、すでに長井の浦は都から新羅などに向かう船の中継地であったと思われます。そして、詩は神功皇后の子安石・鎮懐石の伝説が天平時代にはすでに広まっていた事を示しています。
神門 |
糸崎神社の神門は、かつて三原城内にあった侍屋敷門の一つで、明治8年に移築されています。現存する数少ない三原城の遺構の一つで、貴重な建物として三原市重要文化財に指定されています。
クスノキ |
境内にそびえる御神木のクスノキは樹齢推定500年で、広島県で一番、中四国地方でも3番目の大きさを誇り、市の天然記念物に指定されています。
現在は埋め立てられ現存していませんが、かつて神社のすぐ前に船着き場があり、日没後にこの大楠を右回りに8度回り神社から出ようとすると、夜の海からおらび船と呼ばれる船が神社のすぐ前の船着き場にたどり着いて沖へと連れ去られてしまい、また、左回りに回ると宝船がやって来るという伝承が残されています。
かつては夜泪き松と呼ばれる松の巨木が境内にあり、夜泣きする子にこの松の皮を煎じて飲ませると夜泣きが収まると言われ、また、万病にも効くとされたそうです。
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