三原城跡。上部は新幹線駅舎 |
天守台 |
三原城図面(駅構内) |
天守台 |
駅から眺める堀 |
碁聖・本因坊秀策ゆかりの広島県三原市にある三原城は、天主台跡にJR西日本三原駅および山陽新幹線の三原駅があるという全国的にも珍しい城跡です。
明治期に全国で鉄道建設が始まると用地買収の容易さなどから海岸沿いに線路が敷設されるケースが多く発生し、三原でも現在は埋め立てられ海岸まで300mほど離れていますが、当時海に面していた城跡を鉄道が貫通し駅が造られたのでしょう。
三原城は戦国時代に毛利元就の三男、小早川隆景により整備された城で、水軍を擁する小早川らしく海に面し船も直接出入り出来る三原城は、満潮時には海に浮かんだように見えることから浮城とも称されていました。
江戸時代初期の元和5年(1619)、改易となった福島正則に代わり浅野長政の次男、浅野長晟が広島藩へ移封されると、三原城へは支城として一門で筆頭家老の浅野忠長が入り幕末まで続きます。
幕末期の三原浅野家第10代当主・浅野忠敬(ただひろ)は囲碁好きで、領内の尾道で因島出身の桑原虎次郎という7歳の碁の強い少年が活躍しているという噂を聞き、尾道の豪商、橋本吉兵衛を通じて虎次郎を城へ召し出します。その虎次郎こそ、後の本因坊秀策です。
虎次郎の棋力に感心した忠敬は、度々城へ召し出し碁の相手をさせますが、虎次郎はこの頃より名主を務める父の実家の姓である安田栄斎と名乗り、茶坊主として城へ出仕しています。
忠敬の手配で天保八年(1837)に江戸へ出て本因坊門となった栄斎は、天保10年(1839)には入門後僅か二年、11歳という若さで初段となります。
周囲の薦めもあり、翌年一時帰郷した栄斎に対し、忠敬は財政難の中、五人扶持の家禄を与えています。
その後、栄斎は秀策と名を改め16歳の時に四段へと昇段し、二度目の帰郷を果たしますが、この時、浅野忠敬は秀策の家禄を増禄し功績を讃えています。
秀策はその恩に報いるため、約一年間故郷に滞在して忠敬や城内の家臣たちと碁を打っていたそうです。
その後、五段へ昇段した秀策は、本因坊家跡目となるよう打診されますが、自身はあくまでも三原浅野家から扶持をもらっている身であると固辞、そのため本因坊家は広島藩浅野本家へ断りを入れたうえで浅野忠敬の了解を取り付け、ようやく秀策に跡目となる事を承諾させたそうです。
弘化4年(1847)秀策が19歳の年に、秀策が跡目となる事に尽力した本因坊丈策、隠居の丈和が相次いで亡くなり、本因坊秀和が第14世に就任、秀策は正式に跡目となり六段へと昇段します。
そして嘉永2年(1849)に御城碁へ初参加し、以降、秀策は最後に参加する文久元年(1861)まで、前人未到の御城碁19連勝という大記録を打ち立てていくのです。
秀策は、嘉永3年(1850)に跡目就任報告のために帰郷し、安政四年(1857)にも四度目の帰郷をしていますが、文久二年(1862)にコレラのために惜しまれつつ亡くなっています。
三原城は、後に碁聖と讃えられる本因坊秀策にとって、その道を切り開く重要な起点となった場所でもあるのです。
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