2022年10月18日火曜日

大林寺 伊藤子元の墓

 

大林寺

伊藤子元の墓

伊藤松和、加藤隆和の名。墓石表面にヒビが。

滝川家墓所

 江戸時代後期、名古屋を拠点に天保四傑の一人である伊藤松和や、打碁集「棋醇」を出版した加藤隆和ら多くの有能な碁打ちを世に送り出した伊藤子元は、明和8年(1771)に現在の岐阜県可児市兼山で生まれ、本因坊烈元門下として江戸で修行後に各地を遊歴、薩摩で琉球の碁士に勝利し世間にその名を知られるようになります。
 弘化3年(1846)には五段であったと言われ、享和年間より名古屋で暮らし始め、多くの門人を育てています。
 伊藤子元の墓がある名古屋市千種区城山町の臨済宗妙心寺派寺院、大林寺は、尾張藩初代藩主徳川義直に仕えた家老の滝川豊前守忠征により一族の菩提寺として寛永5年(1628)に建立、大林寺は忠征の戒名からとった名前だそうです。
 忠征は織田信長の家臣・滝川一益の家老・木全忠澄の子で、武功を挙げ主君と同じ滝川姓を与えられています。
 信長の死後、羽柴秀吉と柴田勝家の間で繰り広げられた賤ヶ岳の戦いで、一益に従い柴田軍として参戦し敗北しますが、その後秀吉に仕え伝令役「金切裂指物使番」、普請奉行などを務め活躍。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは西軍として伏見城の戦いに参加しているものの、家康は不問に付し所領も安堵され、駿府城、名古屋城の普請奉行として活躍していきます。
 徳川家康の遺命で元和2年(1616)より徳川義直に仕えた忠征は、家禄6,000石を賜って年寄(家老)として活躍し寛永12年(1635)に77歳で亡くなっていますが、滝川家は以降も藩の重臣として藩政を支えていきます。
 大林寺は、当初中区南桑名町四丁目(伏見町)にありましたが、第二次世界大戦中の強制疎開により、現在地へ本堂や墓が移転されます。
 伊藤子元は弘化4年(1847)に亡くなり大林寺へ葬られ、嘉永元年(1848)には伊藤松和、加藤隆和らにより墓碑を建立。墓碑の側面には二人の名も刻まれています。
 お参りに行った時に感じたのですが、現在お墓は良く管理されているものの、よく見ると風化により墓石にはヒビが見られ、このままだと、いずれ表面が剥離してしまう可能性もあります。
 文化財的価値はあると思うのですが、あくまで子孫の方の所有物であり、この墓碑が今後どのようになっていくのか分かりませんが、貴重な史跡を次世代につなげていくことの難しさを改めて感じさせられました。



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