興正寺入口 |
境内案内図 |
中門 |
名古屋市にある高野山真言宗の別格本山、八事山興正寺は貞享5年(1688)創建で、尾張藩二代目藩主徳川光友の帰依を受け、尾張徳川家の祈願寺として繁栄してきました。
境内は本堂などがある西山普門院と奥之院がある東山遍照院に分かれ、周囲は興正寺公園として一般開放されています。
境内には西山本堂や能満堂など、江戸時代に建てられた建造物がたくさんあり、なかでも文化5年(1808)に建立された愛知県下唯一の木造の五重塔は興正寺の象徴とも言える存在で、国の重要文化財に指定されています。
また、現在五重塔前に立っている中門は、かつて修行の場として女人禁制であった東山と西山の境に建つ女人門を移築したものだそうです。
寺域に隣接する中京大学名古屋キャンパスは、講義棟とクラブハウスが境内によって隔てられているため、墓地を含む境内を日常的に学生が行き来しています。
大日堂 |
稲垣翁寿碑 |
題字 |
境内に多くの碑が建立されている興正寺ですが、総本尊である大日如来が安置されている大日堂の脇には明治期に活躍した囲碁棋士・稲垣兼太郎の碑が建立されています。
江戸で生まれた本因坊秀和門下の稲垣兼太郎は、明治2年(1869)16歳の時に初段を許されますが、囲碁で身を立てることは考えず陸軍省、大蔵省で働き、その後、事業を始めています。
その間、方円社設立に参加し三段まで進んでいますが事業専念のため定式会には散発的に参加していたそうです。
その後、20年間行った事業が上手くいかず見切りをつけた稲垣は囲碁へ専念することを決意。五段へ昇進した頃には本因坊家を継いだ旧知の本因坊秀哉の門人となっています。
明治42年(1909)には全国を巡り各地の棋士と手合を行っていますが、その関係で名古屋の囲碁関係者に招かれ中京囲碁会を設立し、名古屋を拠点に中京地区の囲碁の発展に尽力していきます。
明治45年(1912)六段に昇段した稲垣は、その披露会において京都寂光寺より「日省」の号を授与され、寂光寺に伝わる算砂が近衛関白より授与された桑碁盤、南京石碁石を使用した対局を行います。
そして、大正11年(1922)に古稀を迎えた祝いとして、有志により興正寺境内に寿碑が建立されたのです。
書は肥後熊本藩最後の藩主・細川護久の息子である侯爵細川護立によるもの。護立は第79代内閣総理大臣・細川護熙の祖父にあたる人物で、細川家は細川幽斎以降、囲碁界と深い繋がりがあったことが知られています。
大正12年(1923)の碁界合同の協議会に参加した稲垣は、翌年の日本棋院設立に参加。昭和4年(1929)に七段へ昇段し、昭和15年(1940)に亡くなっています。
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