東京タワー |
現在の「もみじ谷」芝公園 |
紅葉館 |
東京スカイツリーが出来た後も、東京のシンボルとして人気のある「東京タワー」は、昭和33年(1958)に、かつて増上寺の境内であった芝公園20号地に建設されました。
東京タワ-が建っている丘陵は、かつては紅葉山と呼ばれ、徳川2代将軍秀忠が、江戸城内の楓山から楓の木を移植し、山の下を「紅葉谷」、渓流から流れる滝は「紅葉の瀧」と呼ばれていました。現在でも東京タワーに隣接する芝公園に、もみじ谷の名残を見る事が出来ます。
東京タワーは、「紅葉館」という会員制高級料亭があった場所に建設されています。明治14年(1881)に純日本風高級社交場として開業した「紅葉館」は、明治16年に開業した西洋風社交場「鹿鳴館」と共に外国人接待、政財界人の集いなどで利用され、鹿鳴館が僅か七年で閉鎖された後は紅葉館のみがその役目を担っています。
明治期を代表する小説「金色夜叉」で有名な尾崎紅葉は、この辺りの生まれで、ペンネームは「紅葉山」からとっています。「金色夜叉」誕生のきっかけは、尾崎の親友の巌谷小波が紅葉館の女中の「お須磨」と恋に落ちたものの、巌谷が転勤している間に、お須磨が他の客と恋仲になったため、二人をよく知る尾崎が激怒して紅葉館へ押しかけ、お須磨を足蹴にしたという騒動がヒントになっているそうです。その時の様子は熱海の海岸の名場面として登場します。
「紅葉館」は囲碁の歴史においても度々、その名が登場しています。
明治20年(1887)には、前年に亡くなった本因坊秀甫の追善碁会が開催されているほか、大正11年(1922)には、囲碁界が本因坊門と方円社で対立する中、それに替わる第三局として雁金準一、高部道平、鈴木為次郎、瀬越憲作の4名の棋士が裨聖会(ひせいかい)を設立し、その発会式が紅葉館で行われています。名人本因坊秀哉に次ぐ実力者たちによる「裨聖会」結成に危機感を抱いた坊社双方が歩み寄ったことで囲碁界に合同の機運が高まり、関東大震災後、「日本棋院」設立へと時代が動いてきます。
家元本因坊家の最後の当主、本因坊秀哉は昭和13年(1938)、64歳の時に現役引退を発表。その引退碁の相手はリーグ戦を勝ち抜いた木谷實に決まります。引退碁の打ち初めは6月26日に紅葉館で行われ、史上最長の持ち時間40時間、初の封じ手制導入により20回の打ち掛けをはさみ、途中秀哉が入院するなどしたものの場所を変えながら12月4日に伊東温泉の「ホテル暖香園」で終局し木谷が5目勝ちとなります。川端康成は、この対局を観戦し、後にその様子を小説『名人』として発表しています。
このように、囲碁界においても数々の歴史を刻んできた紅葉館は、昭和20年(1945)に東京大空襲で焼失し、跡地が高台で地盤もタワー建設に適していたことから「東京タワー」の建設地に選ばれたのです。
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