渋沢資料館 |
旧渋沢栄一邸 |
晩香廊 |
青淵文庫 |
東京都北区、王子駅の南西側に接する飛鳥山は、江戸時代より桜の名所として知られ、明治6年(1873)には上野公園などと共に日本最初の公園に指定されています。
その飛鳥山には日本資本主義の父として知られ、囲碁界の支援者でもあった実業家の渋沢栄一の屋敷がありました。
栄一は明治12年(1879)の時に設立に尽力した王子製紙工場を見晴らす飛鳥山に4,000坪の土地を購入して別荘を建設。明治34年(1901)から亡くなるまで本邸としてこの地で暮らしています。
飛鳥山邸は単なる私邸にとどまらず、多くの賓客を迎える接待の場としても活用されていたそうで、国内外や分野を問わず多くの賓客を迎え、重要な会議の場、また民間外交の拠点となっていました。
本邸は空襲で焼けて現存していませんが、跡地には「渋沢資料館」が建設され一般公開されています。また、敷地内の栄一が喜寿(77歳)の時に贈られた西洋風茶室「晩香廊」と、80歳の時に子爵となった記念に贈られた「青淵文庫」は、戦災を免れ国指定重要文化財に指定されています。
兜町に住んでいた頃、月に二・三回自邸で方円社の村瀬秀甫や二代目中川亀三郎に囲碁を教わった事もあった栄一ですが、栄一の日記によると明治44年4月28日(1911)『徳川慶喜公伝』編纂のため慶喜公および関係者が飛鳥山邸へ招待され、その際に洋館にて碁会が行われたと記されていて、飛鳥山邸でも碁会が開催される事もあったようです。
栄一は大正末期の囲碁界合流の動きにも関与しています。
大正13年に日本棋院が設立され、明治以降分裂し対立を繰り返してきた囲碁界は統一されますが、その前段の動きとして大正11年に坊門、方円社、関西・中京の有力棋士が署名した「日本囲碁協会」の趣意書が発表されていて、渋沢も賛同者の一人といて署名しています。
囲碁界合流の最大の懸案事項であった新会館設立問題で、本因坊秀哉は費用捻出のため東奔西走していますが、その半分近くを有力支援であった大倉喜七郎に求めることにした秀哉は、了解を確実なものとするため飛鳥山の渋沢を訪ね口添えを依頼しています。
囲碁界合流の話は一度とん挫しますが関東大震災を経て再び機運が高まり日本棋院設立へとつながっていきます。
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