土屋家(現在は空き家) |
玄関。瓦には土屋家の家紋「三ツ石」 |
巨大なソテツ |
秀和の実家「土屋家」の墓 |
秀和の父「土屋和三郎」の墓 |
土屋家本家の墓。右側の五輪塔が土屋喜盈の墓。 |
墓所から眺める富士山 |
伊豆市小下田の最福寺の南隣り三差路に十四世本因坊秀和の実家があります。
現在、土屋家は地元にはおられず、建物は空き家になっています。
小下田の土屋家は甲斐武田家の譜代家老衆の一人、土屋右衛門尉こと土屋昌恒の子孫と伝えられています。
土屋昌恒は武田勝頼が家臣の小山田信茂の裏切りで自害を覚悟したとき、その時間を稼ぐため織田勢と戦い壮絶に討ち死に、徳川家臣の大久保忠教は敵である忠恒の活躍を賞賛したとの記録も残っています。
下小田の土屋家は、武田家滅亡後に昌恒の次男喜盈が落ち延び隠れ住んだのがルーツと言われていますが、近くには土肥金山があり、武田氏を金山採掘により支えた「金山衆」と共に落ち延びてきたのかもしれません。秀和の生まれた家は、その中の分家の一つだそうです。
現在の建物は江戸時代のではありませんが、かなり立派な建物で、昭和63年に行われた「第43期本因坊戦」の第五局が、秀和の故郷ということで、すぐ近くの土肥温泉で行われた際、武宮正樹本因坊と大竹英雄九段が訪れています。
庭にある巨大なソテツは、江戸時代からあったと言われ、秀和も眺めていた可能性があるそうです。市としては天然記念物に指定したいという意向があったそうですが、土屋家の了解が得られず断念したそうです。
土屋家がある三差路の山側の道に入ってすぐのところに山の中腹にある墓地へ上がる道がありますが、その墓地の一番上に秀和の実家である土屋家の墓があります。
秀和の父の名「和三郎」は、歴代当主が名乗っていた名前で、土屋家の墓所には和三郎の墓が複数あります。そこで、秀和の経歴と照らし合わせてみたところ、文政13年に亡くなった和三郎が秀和の父親であることが判明しました。
秀和の実家の墓所から一段下がったところには土屋家本家の墓所もあり、その中にある五輪塔が初代である土屋喜盈、つまり秀和の先祖の墓だそうです。
土屋家の墓所からは富士山を眺めることが出来ます。幼い頃の秀和も、ここから富士山を眺めていたのでしょうか?
秀和の子孫の土屋家の墓は巣鴨の本妙寺にある歴代本因坊家の墓所にあり、現在、秀和の子孫の土屋家と実家の土屋家との間に特に交流はないそうです。しかし平成18年(2006)に秀和が囲碁殿堂入りした際に、関係者の働きかけで両家が揃って授賞式にのぞんだそうです。
こちらを訪れる際には、秀和の実家は空き家ですし墓所の訪問も含めて最福寺に相談した方が良いかもしれません。
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