文化武鑑(文化2年) 烈元の住所は「ゆしま石坂下」 |
旧坂下町付近。突き当りが男坂 |
心誠院 |
本因坊家は道策以来、本所相生町に拝領屋敷がありましたが、必ずしも当主が常にそこに住んでいた訳ではなかったようです。
十世本因坊烈元は、天明8年(1788)から文化5年(1807)まで当主を務めていますが、当時の武鑑には住所が湯島石坂下と記されています。
東京都文京区湯島三丁目にある湯島天神の隣に江戸時代に坂下町という所がありました。湯島天神に上がる「天神男坂(天神石坂)」や「女坂」に接した、現在心誠院がある区画です。心誠院は湯島天神の別当寺であった天台宗喜見院の弁財天堂でしたが明治維新による神仏混合の禁令により湯島天神と分離しています。
天神男坂は天神石坂とも呼ばれ、その下に続く天神石坂下通りは上野広小路へと通じていました。上野広小路は江戸時代有数の繁華街で、そこへ行くために本郷方面の人々は湯島天神境内を経由し、天神石坂下通りを通過していました。そのため天神石坂下通りは多くの人々が行き交う盛り場として賑わっていたそうです。
烈元の屋敷は湯島石坂下となっているので坂下町というよりは天神石坂下通りのどこかにあったと思われます。現在、通りは静かな雰囲気の場所ですが、飲食店もあり、かつては賑やかであった様子がうかがえます。江戸時代は更に賑わっていたと考えられ、そこに本因坊門下が集まって碁を打っていたのでしょう。
文化5年(1809)に烈元が亡くなり、十一世本因坊元丈の時代になりますが、武鑑によると住所は湯島石坂下のままだったようです。
そして元丈の跡を継いだ十二世本因坊丈和は上野車坂下へ道場を移しますが、車坂下も上野広小路および山下の近くであり、湯島石坂下で修行していたであろう丈和にとって、この周辺は顧客も多く、なじみ深い場所だったのかもしれません。
なお、学問の神様である菅原道真を祀る湯島天神から石坂を通って仲御徒町駅まで結ぶ約700mの道が、2017年に「学問のみち」と命名され、受験シーズン前には、受験生を応援するイベントが開催されているそうです。
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