車坂(江戸切絵図・下谷絵図) ※江戸名所図会と数字の場所は同じ |
車坂(江戸名所図会・山下) ※江戸切絵図と数字の場所は同じ |
入谷改札付近から公園改札側に抜ける公園口通路 |
本因坊丈和の時代、上野車坂下に本因坊家の道場がありました。本因坊家は本所相生町に拝領地がありましたが、歴代当主は必ずしもそこに住んでいた訳ではなく、囲碁普及のため、その時々で最も適した場所に居所および道場を移し、拝領地の一部は借家として収入を得ることもあったそうです。
車坂下の道場では月五回の例会が開かれ、名人碁所へ登り詰めた本因坊丈和のもとへは秀和、秀策ら多くの優秀な人材が集まり道場は大いに賑わっていたそうです。丈和は丈策へ家督を譲り隠居すると本所相生町へ住居を移していますが、その後も道場で後進の指導にあたっていたそうです。後に跡目となる本因坊秀策は、故郷から江戸へ出て、こちらの道場で修行を始めています。秀策は一般の内弟子と共に掃除や来客の接待をしながら、棋譜を並べ、兄弟子たちとの研究手合に明け暮れていましたが、ある日、秀策の碁に目を止めた丈和は、「これは一五〇年来(道策以来)の碁豪である。我が門風はこれより大いに挙がるだろう」と語っています。
十八世本因坊秀甫は道場の隣にあった大工の家に生まれたそうで、幼いときに石音につられて道場に入り、見よう見まねで囲碁を覚えたと言われています。
秀策たちが修行に明け暮れた道場は、上野車坂下というだけで詳しい場所は分かっていません。上野車坂下は町名では無く、文字通り車坂の坂下という意味だそうで、江戸時代は場所を示すのに町名ではなく坂や橋など目標物で表すことが多かったと言います。
車坂は現存していませんが、現在の上野駅構内にありました。上野駅が建設されたのは江戸時代「下寺」と呼ばれた寛永寺の塔頭11ヶ寺が崖下に沿って並んでいた場所で、車坂は下寺を通り抜ける三つの坂の一つ。多少異なりますが概ね上野駅公園口改札からコンコースをまっすぐ進み入谷改札あたりに抜ける位置にあり、入谷改札付近には出入口として車坂門がありました。なお、名称の由来は車が通行できる坂という事らしいです。
記録によると道場は旗本・山本弥左衛門拝領地を借りて建てられたとあり、車坂門の門前には御徒大繩地(下級武士の宅地)がたくさんあったことから、その中の一画と推察されます。現在の上野駅東側、浅草口はどバス乗り場周辺になりますが、どこまでが坂下と呼べるのかはっきりしないため、それ以上絞り込む事はできませんでした。
車坂門の近くには江戸時代の繁華街、上野山下がありました。上野山下は元文2年(1737)の火災により火除地となりますが、延享5年(1748)によしず張りでの商売が認められ、以降は江戸庶民の遊興の地として賑わっていたと言います。
『江戸名所図会』山下図を確認したところ、よしず張りの小屋が一面に描かれ、「茶ヤ、ものまね、浄るり、見世物、曲馬」などと書かれていました。小屋は道沿いに車坂門近くまで続いていたようなので本因坊家の道場も賑やかな場所にあったのかもしれません。
多くの門人で賑わっていた道場ですが、弘化4年(1847)に丈策、丈和が相次いで亡くなり、跡を継いだ本因坊秀和の時代になると幕末の混乱期という事もあり、秀和は上野車坂下の道場を引き払って本所相生町の屋敷を道場としています。
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