広電廿日市駅 |
蓮教寺 |
本堂 |
文化財指定のソテツ |
「広電廿日市駅」近くにある「蓮教寺」は、昭和20年の原爆投下時に広島で行われていた第3期本因坊戦、いわゆる「原爆下の対局」ゆかりの寺だそうです。
裏通りに面した閑静な場所にある「蓮教寺」は浄土真宗本願寺派の古刹で、現在の広島市佐伯区から江戸初期にこの地へ移転。境内にあるソテツの大樹はもとは、近くにあった津和野藩御船屋敷に植えられていたもので、昭和60年に市天然記念物に指定されています。
第二期本因坊・橋本宇太郎に岩本薫七段が挑んだ第3期本因坊戦は、東京大空襲により棋院が焼失し、橋本本因坊の師匠・瀬越憲作の故郷で疎開先であった広島で開催される事となります。
第一局は、爆心地近くの当時の日本棋院広島支部長の藤井順一氏の別邸(現在の広島記念平和公園内)で開催されますが、米軍機の機銃掃射が建物に当たるなど危険な状態であり、第二局以降は市内から10kmほど離れた佐伯郡五日市町吉見園(現広島市佐伯区吉見園)で開催される事になります。
そして、第二局の最終日である8月6日午前8時15分、対局が始められた直後に人類史上初の原爆が投下。爆心地から10km離れた本因坊戦会場でも、碁石が飛び散り、窓ガラスは粉々となったそうで、橋本本因坊は吹き飛ばされて庭にうずくまっていたと言います。
部屋を清掃後に対局は再開され動揺はあったものの最後まで打ち切り第二局は当日終局しますが、第三局以降については原爆投下により藤井支部長以下、多くの関係者が亡くなり、立会人であった瀬越憲作の息子も重体(後に死亡)であったため無期延期が決定。
原爆投下から四ヶ月後に千葉・東京で再開された第三期本因坊戦は全六局を三勝三敗で終え本因坊の座は日本棋院預りとなり、翌年に改めて高野山にて三番勝負を開催。その結果、岩本薫七段が2連勝し、第3期本因坊の座に就いています。
ところで蓮教寺との関わりですが、高野山での三番勝負が開催された際、原爆犠牲者の慰霊のために第一局の二手のみ、「原爆下の対局」が打たれた五日市町の西隣である廿日市町の蓮教寺で打たれたと記録あれています。
以前蓮教寺を訪れた時に、何か本因坊戦に関する資料が残っていないか、ご住職にお尋ねしましたが、当時から二代も住職が代わっていて本因坊戦に関する話は伝わっておらず、以前も新聞記者が取材に訪れたそうですが何も分からなかったそうです。
ただ、確認はしていませんが蓮教寺で対局が行われたのは原爆犠牲者の一周忌の慰霊のためであり、藤井支部長は廿日市出身である事から、蓮教寺は藤井氏ゆかりの寺なのかもしれません。
また、ご住職の話によると、廿日市は古くから海運が発達した場所で、瀬越憲作の出身地である江田島市能美島の人々は本土に用がある時は廿日市の港を利用していたそうで、蓮教寺で慰霊の対局が打たれたのは、単に五日市町に近かったからではなく、瀬越憲作にとって馴染み深い地であったというのも理由の一つのようです。
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