現地に設置されている被爆前の地図
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被爆の様子を伝える石碑 |
藤井別邸跡(休憩所付近) |
韓国人原爆犠牲者慰霊碑 |
被爆した墓石 |
第二次世界大戦末期の昭和20年(1945)8月6日、広島市において世界初の実戦による原子爆弾が使用され、約14万人が亡くなります。
人類が忘れてはならない出来事の一つですが、囲碁界においても当日、第三期本因坊戦が広島で開催されていて、いわゆる「原爆下の対局」として語り継がれています。
当時唯一のタイトル戦であった本因坊戦は第二期本因坊橋本宇太郎七段(本因坊昭宇)に対し岩本薫七段が挑戦者として決定していましたが、東京大空襲により日本棋院が焼失したため東京での開催が困難な状態でした。
そして「本因坊戦の火を消してはならない」という思いから、空襲の被害が少ない地方での開催が模索され、橋本本因坊の師匠である瀬越憲作八段が広島の能美島出身で、当時広島へ疎開していた事から、広島市での開催が決定します。
対局は当初、六番勝負全局を広島市内中心部にある日本棋院広島支部長の藤井氏の別邸で行う予定で、7月23日から25日にかけて行われた第一局は岩本七段が勝利していますが、対局中にアメリカ軍機の機銃掃射が会場の屋根に当たる等、かなり危険な状態となり、協議により二局目以降を市内から10キロほど離れた佐伯郡五日市町吉見園(現広島市佐伯区吉見園)の中国石炭の寮で行う事となります。
第二局は8月4日から三日間で行われましたが、最終日の8月6日、前日までの手順を並べ直した直後の8時15分に、B-29「エノラ・ゲイ」から原子爆弾「リトルボーイ」が投下され炸裂。
爆心地から10キロ離れている会場でも爆風で碁石は飛び、窓ガラスは粉々になるほどの被害を受けたそうです。
この時、吹き飛ばされた橋本本因坊は庭にうずくまり、岩本七段は碁盤の上にうつ伏となっていますが、立会人の瀬越氏だけは平然と正座したままで皆感心していました。しかし本人は後日、腰が抜けて動けなかったと語っています。
この日、対局は清掃の後に再開され、正午ごろには終局し橋本本因坊が勝利を収めますが、これ以上の広島での対局は無理という事で三局以降は中断されれています。
「原爆下の対局」の会場、中国石炭の寮は、現在の広電五日市駅近くにあったそうですが現存していません。今回は現在平和記念公園となっている第一局の会場、藤井別邸跡について紹介させていただきます。
原爆ドームや広島平和記念資料館などが点在する爆心地近くの平和記念公園は 旧太田川(本川)が元安川と分岐する三角州にあり、もとは江戸時代から昭和初期に至るまで広島市の中心的な繁華街でした。
公園内を歩いていると被爆直後の旧中島地区の写真が刻まれた石碑がありました。
写真には、壁を一面だけ残し崩壊しているレンガ造りの建物が写され、その周りにあったであろう家は跡形もなく、右後方に原爆ドームが見えています。
原爆の悲惨さを伝える有名な写真ですが、写真に写っている建物は、明治32年に中島町本町という市内有数の繁華街に建てられた住友銀行広島支店で、昭和3年に銀行の移転に伴い貿易商、藤井商事の社屋となっています。
この藤井商事の社長こそ日本棋院の広島支部長で本因坊戦第一局の会場を提供した方だったそうです。
本因坊戦の会場となった藤井別邸は藤井商事の奥にあり、碑の写真からも分かるとおり原爆で跡形もなく吹き飛んでいるため、もし、当日この場所で碁が打たれていたらどうなっていたか火を見るより明らかです。
藤井支部長以下、関係者の多くが原爆投下時に広島市内でお亡くなりになっています。
なお、現地の数ヶ所に、被爆前の中島本町の地図が設置されていましたが、それぞれ年代が異なるのか微妙に表記が異なり、「藤井商事」が「藤井商事倉庫」となっていたり「藤井別邸」が、藤井とだけ書かれている地図もありました。
藤井別邸は鉄筋コンクリート造の立派な建物だったそうで、その跡地を調べたところ現在の「平和乃観音像」と「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の間にある休憩所付近にあった事が分かりました。
「平和乃観音像」は中島本町の生存者により1956年に建立され市に寄贈されたもので、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」は1970年に本川橋西詰に建立されていますが、平和公園内への移設を望む声の高まりにより1999年に現在地へ移設されています。
もう一つの目印として「被爆した墓石」があります。藤井商事および藤井別邸は慈仙寺というお寺の墓地に接していたそうで、戦後、お寺が移設した際に墓地も移設されますが、原爆の惨状を後世に伝えるために一基だけ残されたそうです。
墓石は広島藩浅野家の御年寄岡本宮内の墓で、窪みの中に設置されていますが、この位置が本来の高さで、埋め立てにより嵩上げして公園が造成されたそうです。
藤井別邸周辺の被爆の様子については、平和記念公園内にある広島平和記念資料館でも確認することができます。
第三期本因坊戦は、原爆投下から四ヶ月後に千葉・東京で再開されたものの全六局を三勝三敗で終えたため、翌年、改めて三番勝負が実施され、その結果、岩本七段が勝利して岩本本因坊(本因坊薫和)が誕生。
岩本本因坊は後に日本棋院理事長に就任し、戦後の日本棋院復興や海外での普及に尽力しています。
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