2021年7月7日水曜日

飯坂温泉と本因坊秀伯ゆかりの常泉寺

 

温泉街の足湯

常泉寺の山門

山門前にある本因坊秀伯の顕彰碑

標柱

本因坊秀伯の墓碑

碁笥と碁盤をデザインした墓碑

墓碑の裏側

 福島駅から福島交通飯坂線に乗り20分あまりで終点の飯坂温泉駅に着きます。
 飯坂温泉の歴史は古く、日本武尊が東征の際に湯治に使ったという伝説もあります。
 街道が整備された江戸時代には多くの旅人が訪れ、松尾芭蕉も「奥の細道」の旅で滞在し紹介しています。
 また明治以降も様々な人々が訪れていて、与謝野晶子や正岡子規らが歌や句を残しています。
 飯坂温泉にある常泉寺は約千年前に太平寺として創建され、慶長元年(1595)に福島長楽寺五世・立質金祝和尚により中興開山されます。その際、境内に名湯の一つ「滝の湯」があったので温泉をイメージする「巌湯山」の山号と「常泉寺」の寺号に改めたそうです。
 七世本因坊秀伯は、飯坂温泉近くの陸奥国信夫郡大飯田村の農家、佐藤勝右衛門の長男として生まれ通称甚四郎といいました。
 五歳の時にはすでに周りの大人より囲碁が強かったそうで11歳で江戸に出て本因坊門下となり、享保18年(1733)18歳の時、故郷へ帰省中に師匠の六世知伯が24歳で急逝したため本因坊家を継承しています。
 21歳の時には「碁将棋名順訴訟事件」が発生。低迷する囲碁界に対して、20代の名人将棋所が誕生するなど隆盛を極める将棋界は、七世名人・伊藤宗看が幕府へ、碁方が将棋方より優位であったこれまでの席次を改めるよう要求しますが、これは名町奉行として知られた当時の寺社奉行・大岡越前守の裁定で退けられます。
 この件がきっかけで囲碁界が活性化したのか、秀伯は七段昇進をめぐり井上春碩因碩と争碁を行っていますが決着がつかぬまま26歳で亡くなり低迷期の脱出には今しばらく時を要します。
 常泉寺は秀伯の生家・佐藤家の菩提寺であり秀伯が寄進した木魚が残されているそうです。そして2008年には関係者の尽力により秀伯の墓碑と顕彰碑が建立されています。

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