浜松城(復元) |
野面積みの石垣 |
天守門 |
若き日の徳川家康公 |
囲碁の愛好家として知られ、後に天下を統一する徳川家康は、三河国の岡崎城を居城としていましたが、元亀元年(1570)武田信玄の侵攻に備えるため本拠地を遠江国曳馬にあった曳馬城へと移して城を拡張する形で浜松城を築城します。
家康が信玄に大敗した三方ケ原の戦いは浜松城時代の話で、元亀3年(1573)上洛を目指す武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながら素通りし、その挑発にのった家康が浜松城から打って出ますが、武田軍の巧妙な反撃により討ち死に寸前まで追い詰められます。ようやく浜松城まで逃げ帰った家康は全ての城門を開き武田軍に警戒心を抱かせて難を逃れたといいます。
家康が浜松城に居たのは29歳から45歳までの17年間で、その後、武田の滅亡にともない拠点を駿府城へと移し、さらに豊臣秀吉の命により関東へ移封となります。
江戸時代、家康ゆかりの浜松城には譜代大名各家が次々と入っていますが、その多くが後に老中など幕府の要職を歴任していることから、浜松城は「出世城」と呼ばれるようになります。天保の改革で知られる水野忠邦もその一人です。
徳川家康により築城された当時の浜松城は土造りの城で、石垣や瓦葺の建物は無かったと考えられています。
石垣などが整備されたのは家康が江戸へ移った後で、秀吉の命で城主となった堀尾吉晴により天守閣が建造されたようです。
堀尾吉晴は豊臣政権で五大老と五奉行の意見が合わないときに調整する三中老の一人で、息子の代も含めて浜松城には11年間在城しています。
そして関ケ原の戦いで家康に協力した功績により出雲国へ移封となり、現存天守で国宝に指定されている松江城を築城しています。
浜松城の城跡は、現在「浜松城公園」として整備され、天守閣などが復元されています。
城の石垣は戦国時代の特徴である自然石を組み合わせた野面積であり、天守台については江戸時代中期の絵図には描かれていないことから江戸城のように火災で焼失した後再建されなかったようです。
現在の天守台は、残されていた石垣の上に昭和33年に再建された3重4階、鉄筋コンクリート造の模擬天守閣で、資料館と展望台として活用されています。
天守曲輪の大手につくられた天守門は、浜松城を代表する建物でしたが明治6年(1873)に取り壊されています。そして平成21年(2009)から行われた発掘調査により見つかった礎石や、19世紀に描かれた絵図などをもとに、平成26年(2014)に復元され一般公開されています。
囲碁の愛好家であり、有力な碁打ちに幕府より禄を与えるなど囲碁界を庇護してきた徳川家康ですが、囲碁に熱中しだしたのは天正15年に築城間もない駿府城で本因坊算砂と出会ってからと言われています。
家康は元々、人が碁を打つのを見ても、周囲に迷惑をかけるだけで何の役にもたたないと思っていたそうで、浜松時代はあまり囲碁に興味がなかったかもしれません。
ただ浜松城が関わる囲碁の話しが幾つか残されています。
後に家元林家の初代となる林門入斎が幼少の頃、囲碁が強い少年として名が知れ渡り、それを聞きつけた家康が滞在中の浜松城に召し出し対面。その実力が認められ京都にて坊主衆として取り立てられたと伝えられています。
この他、江戸時代初期の浜松城主であった松平忠頼(桜井松平家)は、慶長14年(1609)に従弟の水野忠胤の江戸屋敷に招かれて宴席に参加しますが、そこで忠胤の与力である久米左平次と服部半八が囲碁の勝敗をめぐり口論となり、それを仲裁しようとして左平次に刺殺されてしまいます。一説には忠頼がしきりに服部に対して助言をしたのが原因と言われますが、忠頼の嫡男はまだ幼く末期養子が認められなかったため松平家は一旦改易となっています。(翌年、改めて息子が大名に復帰)
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