巽櫓 |
東御門 |
展示されている駿府城模型 |
東御門に展示されている将棋のパネル |
紅葉山庭園 |
本丸跡の徳川家康像 |
囲碁の愛好家であった徳川家康が居城とした駿河国(静岡県)の駿府城は、現在では本丸と二の丸の城跡が「駿府城公園」として整備されています。
駿府城は14世紀より駿河守護を務めた今川氏が拠点とした今川館の跡に築城。今川館は家康が人質として9歳の頃より10年間暮らした思い出の地でもあります。
桶狭間の戦いで今川義元が討たれ今川氏は弱体化していき、武田信玄の侵攻により駿河国は武田領となりますが、その武田が滅亡し、駿河を含た五カ国を支配することになった徳川家康は、天正17年(1589)に居城として駿府城を築城します。城の当初の規模は現在の二ノ丸あたりまでの広さだったそうです。
その後、豊臣秀吉の命により江戸へ移った家康は、秀吉の死後、慶長8年(1603)に征夷大将軍となり江戸幕府を開きます。
慶長10年(1605)将軍職を息子の秀忠に譲った家康は、隠居のための城として再び駿府城の改修に着手。
本丸は慶長12年(1607)に完成しますが、間もなく失火により焼失し翌年に再建。天守閣は慶長15年(1610)に完成しています。また、この時外堀も造られ、駿府の町割りや治水工事も併せて行われています。
なお駿府城に入った家康は、その後も政治力を亡くなるまで維持し続け「大御所政治」と呼ばれる江戸と駿府の二元政治が行われています。
ちなみに、家康は駿府城主ではなく、城主は後に紀州徳川家の祖となる徳川頼宣だったそうで、元和2年(1616)家康が亡くなった後は寛永元年(1624)に秀忠の息子の忠長が城主となりますが、忠長が兄の将軍家光との対立により甲府への蟄居となると駿府城は城主不在となり、幕末まで城代が置かれています。
囲碁の愛好家であった徳川家康が築城した駿府城は囲碁界とも関わり深い場所です。
家康の記録の中で初めて囲碁の記述が登場するのは天正15年のことで、家康の娘婿である新城城主・奥平信昌が、囲碁の師匠である本因坊算砂と共に、完成間もない駿府城を訪れたと記録されています。
家康公はもともと囲碁は何の役にも立たないと考えていたようですが、算砂の手ほどきにより目覚め、駿府城にて算砂と日夜対局に興じていたと伝えられています。
時は移り、大御所となった家康公は算砂を始めとする碁打ち衆や将棋衆を度々駿府城へ召し出し御前対局を実施。これが後に御城碁へと発展していきます。
駿府城は明治以降、静岡市や陸軍により管理され、戦後に本丸、二ノ丸部分を「駿府公園」として整備。平成元年に市制100周年記念事業として巽櫓が復元され、平成8年には東御門が復元、平成24年に名称を「駿府城公園」と改めています。
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