2021年6月19日土曜日

幸手市の本因坊察元の墓

 

幸手市平須賀の共同墓地

本因坊烈元の墓

本因坊烈元の墓

墓石に刻まれた碑文

碑文の訳(現地説明板)

 歴代本因坊は菩提寺である江戸の本妙寺へ葬られていますが、八世伯元、九世察元、十世烈元を輩出した埼玉県幸手市では、それぞれの墓碑が発見されています。
 九世本因坊察元は現在の幸手市平須賀の間宮家の出身で、幼いときに同じ幸手出身の八世伯元門下となり、22歳の頃に伯元の病のため跡目となり本因坊家を継承しています。
 当時、本因坊家では伯元までの三代に渡り当主が続けて20代、段位も7段に満たないまま亡くなったため、囲碁界全体が勢いを失い「暗雲の時代」と呼ばれていました。
 そうした中、察元は強引ではあったものの名人碁所まで上り詰め、他の家元は反発しますが、結果として囲碁界が活性化していった事から、察元は「棋道中興の祖」と呼ばれています。
 察元は天明8年1月26日(1788年3月3日)に亡くなり本妙寺へ葬られますが、幸手市の墓碑は同年7月に察元の兄・間宮又左衛門により建立されています。
 正面には「本因坊上人之墓」と刻まれ、残り3面に碑文がびっしり刻み込まれています。 碑文は察元の息子である間宮幸八が川崎整儀という人物に依頼して書いてもらったもので、現地の説明板に、その訳文が記されています。
 なお、察元の墓碑は平須賀の共同墓地にありますが、幸手の間宮家はすでに断絶しているそうです。

埼玉県幸手市平須賀3018

【囲碁史人名録】 九世本因坊察元


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