澤村家の墓所 |
澤村家の墓所 |
烈元の墓(左から2番目) |
墓石に刻まれた「本人坊」と「もよ」の文字 |
現地説明板 |
八世伯元、九世察元と二代続けて本因坊を輩出した埼玉県幸手市ですが、十世烈元については江戸の生まれで幕府数寄屋方の組頭である山本家の出身であると考えられていました。
烈元は、棋道中興の祖と呼ばれた察元の跡を継ぎ、各家元の跡目の中で本因坊家の跡目を筆頭とするなど、本因坊家の格式、権威を守る事に尽力しています。
烈元について、澤村性を名乗り打たれた棋譜が残されていて、その理由は謎とされてきましたが、平成11年から幸手市が市史編さんにともなう市内石造物調査を行い、平成15年に伯元に続き察元の墓発見のニュースが報道されると、それを見た市内上吉羽の澤村氏より、先祖の墓地に「本人坊」と書かれた墓があり、家には差出人が本因坊と書かれた手紙が残されているとの連絡がありました。そこで市が詳しく調査したところ、澤村家の分家の過去帳に「烈元」の記載を発見し、従来の定説を覆し烈元が幸手市の出身であったことが判明したのです。
墓石の「本人坊」の表記については、江戸時代は「本因坊」をホンニンボウと発音していたため、墓を造る際に当て字で「本人坊」と刻まれたのではないかと推測されています。
また、「本人坊」の隣りに刻まれている「もよ」という人物は烈元の妻だそうです。
【囲碁史人名録】 十世本因坊烈元
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