要津寺 |
墓地 |
柵越しに見える牧野の文字。 |
嵐雪・桜井吏登の供養塔(左)と大島蓼太の墓碑(右) |
松尾芭蕉の句碑 |
説明版 |
墨田区千歳にある臨済宗妙心寺派の要津寺は、慶安年間(1648~1652)に側用人を務めた下総関宿藩の初代牧野成貞が、父成儀を開基として駒込に東光山乾徳寺として創建。
天和2年(1682)の大火で焼失し廃寺となりますが、元禄4年(1691)に成貞が下屋敷の一部である現在地を寄進して寺を再興。その際に父・成儀の戒名「要津院」から「要津寺」と名を改めています。
幕閣の実力者であった成貞は囲碁好きとしても知られ、本因坊道悦に師事して自ら本因坊門下を称していました。道悦や道策とは二子で打っていましたが、師匠達は大名である自分に手心を加えているのではないかと疑問を抱き、本当の実力を確かめるため本因坊家と対立していた安井算知に対局を申し込んだという逸話が残されています。
牧野家は後に常陸笠間藩へ転封し幕末まで続きますが、最後の藩主・牧野貞寧も囲碁の愛好家だったそうで、明治期に囲碁の才能があった元家臣の子、石井千治を方円社へ入塾させますが、千治は後に方円社社長となり囲碁界を牽引していきます。
要津寺の墓所には成貞や貞寧が眠る牧野家の墓所がありますが関係者以外は中に入れないようです。
要津寺境内には雪中庵関係石碑群もあります。雪中庵とは芭蕉三哲の1人である服部嵐雪の号で、三世雪中庵を継いだ大島蓼太は、松尾芭蕉が暮らした深川芭蕉庵に近い要津寺の門前に芭蕉庵を再興しています。
これにより要津寺は雪中庵ゆかりの地となり、天明年間(1781~1789)には俳諧の拠点となります。 石碑群の構成は蓼太によって建立された嵐雪と二世雪中庵桜井吏登の供養塔や「雪上加霜」と刻まれた蓼太の墓碑、安永2年(1773)に建立された「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑などがあります。
松尾芭蕉は幾つか囲碁に関する句を詠んでいますが、弟子の服部嵐雪にも囲碁の句があります。「菊買ふはまた碁に負けし人ならん」。
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