明暦3年の西の丸下 |
現在の風景。前方に見えるのが桜田門。 |
二代将軍徳川秀忠の庶子で、会津藩初代藩主の保科正之は、兄の三代将軍徳川家光や、その子である四代将軍徳川家綱を補佐する幕閣の重鎮でしたが、一方で囲碁の愛好家であり支援者でもありました。
その保科正之の屋敷について調べてみたところ、明暦の大火が発生した明暦3年の地図では、上屋敷が現在の皇居外苑、当時西の丸下と呼ばれていた大名屋敷が建ち並ぶ場所にあった事が分かりました。
西の丸下のほとんどの屋敷が老中など幕府の要職についている大名に貸し与える役宅であり保科正之もずっとこの場所に住んでいたのか分かりませんが、二世安井算知は幕府とは別に正之より禄をもらい、屋敷にて囲碁を指導していたそうです。
また、御城碁開催の時は、安井家は正之の屋敷に宿泊し江戸城へ通っていたそうです。
0 件のコメント:
コメントを投稿