山門(高麗門) |
碁石と同サイズの石が埋め込まれた山門の金具 |
本堂 |
本因坊家の菩提寺である巣鴨の「徳栄山本妙寺」は、徳川家康が浜松城へ移った翌年の元亀2年(1572)に、家康の家臣で三河国額田郡の古刹、海雲山長福寺の檀家であった久世広宣・大久保忠勝・大久保康忠・阿倍忠政らにより駿府で創建されています。
天正18年(1590)家康公の江戸入城に伴い、寺院も江戸へ移転。当初は江戸城清水御門内の礫川町にありましたが、城域拡張に伴い飯田町、牛込御門内、小石川へと移転していきます。
その後、寛永13年(1636)に火災のため焼失し、替地の本郷丸山に、約6000坪の境内に九間四面の本堂や千仏堂、客殿、書院、庫裡などを整備。十二の塔頭や七堂伽藍も備える大寺院として再建され、以降、明治末期までこの地にあり「丸山様」と呼ばれていました。
明暦の大火の供養塔 |
寺院は明暦3年(1657)完成から数年後に「明暦の大火」により焼失していますが、その火元について当初から本妙寺であると言われてきました。
「明暦の大火」は、1月18日未刻(午後2時頃)に出火し、折からの強風にあおられ市中へ広がり、江戸の大半が焼きつくされる大災害となります。死者は十万人、江戸城も天守閣や本丸・二の丸が焼失し、天守閣はその後再建されることはありませんでした。
そして、その原因が本妙寺で、檀家の娘の供養のために遺品の振り袖を燃やしたところ、舞い上がって本堂の屋根に燃え移ったとされていて、別名「振袖火事」といわれています。
しかし、本妙寺が火元という説には異論も多く「本妙寺火元引き受け説」が語られています。
その理由として、失火は大罪とされた当時、本妙寺は何も処罰されること無く、数年後に再び大寺院として再建されている事。また、後に幕府と同一宗派との連絡調整役に任じられるなど、むしろ厚遇されている点が挙げられます。
そこで、有力となっているのが、本妙寺の北側にあった、老中・阿部忠秋の屋敷が火元という説です。老中が火元となれば幕府の権威が失墜するため、それを避けるため徳川家と縁が深い本妙寺が汚名を引き受けたと言うのです。
振袖火事の俗説は、火災直後から市中に広まっていましたが、これも幕府による情報操作だと考えられています。なお、阿部家からは本妙寺へ大正時代まで毎年大火の供養料が奉納されていたそうです。
本因坊歴代の墓 |
ところで、本妙寺が本因坊家の菩提寺となったのは、明暦の大火から45年後の元禄15年(1702)、四世本因坊道策が葬られたのが最初ですが、正確には本妙寺の塔頭の一つ、感應院が菩提寺だったそうです。
本因坊家は三世道悦までは、初代算砂が住職を務めた京都の寂光寺へ葬られていますが、四世道策の時代になると家元制度の確立により江戸へ定住するようになり、道策は江戸の感應院に葬るよう遺言し亡くなります。そして以降の歴代当主も道策に習い感應院を菩提寺としたのです。
明治に入り感應院が廃寺になったため本妙寺が檀家を引き継いだようで、明治43年(1910)に現在地へ寺院が移転した際に墓地も一緒に移りますが、本因坊家墓所の移転に際しては当時の当主、本因坊秀哉が立ち会ったと記録されています。
関宿藩久世家の墓所 |
本妙寺には本因坊家の墓所以外に、名奉行遠山金四郎、剣豪千葉周作、将棋の棋聖・天野宗歩など著名人の墓がいくつかあります。
また、創建時のメンバーで火災による再建にも尽力した関宿藩主・久世家の墓所もありますが、久世家は囲碁家元を管轄する寺社奉行を務めるなど囲碁界との関わりが強く、特に老中を務めた七代藩主・久世広周は、十二世井上節山因碩が門人を斬り殺し退隠した際に、縁の深かった林門下の松本錦四郎を推挙するなど囲碁界に大きな影響を及ぼしています。
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