うろこ屋旅館(現存せず) |
部屋の様子(秀哉臨終の部屋ではありません) |
部屋から望む海 |
図面 |
小沢の湯 |
昭和15年(1940)1月18日、家元・本因坊家最後の当主、二十一世本因坊秀哉は、熱海温泉の「うろこ屋旅館」(現存せず)で、波乱に満ちた67歳(数え年)の生涯を終えています。
昭和13年に木谷実との引退碁を終え引退した秀哉は、当時、喜代夫人を伴い「うろこ屋旅館」に滞在。1月16日には、作家の川端康成が訪れ、午後から夕方まで将棋に興じるほど元気だったそうです。
しかし、翌日に持病の「心臓衰弱症」悪化により危篤状態となり、知らせを聞いて駆けつけた、門下の村島五段、高橋・小杉両四段、京都の吉田五段(段位は全て当時のもの)らが看病する中、「こんどばかりはやられたよ…」とニコリと笑い、翌18日午前6時55分に静かに眠るように亡くなったと伝えられています。
本因坊秀哉臨終の地である「うろこ屋旅館」は、現在の熱海市銀座町にあったそうで、当時のパンフレットを確認してみると熱海温泉に点在する源泉「熱海七湯」の一つ「小沢の湯」を専用の源泉として使っていたと記されていました。
旅館の敷地内にあった「小沢の湯」は、もともと沢口弥左衛門、藤井文次郎、米倉三左衛門の庭の湯であり「平左衛門の湯」と称されていましたが、地元の人々は小沢にあったことから「小沢の湯」と呼ぶようになったそうです。現在、旅館などの源泉としては使われていませんが、吹き出す蒸気で温泉卵を作ることができ、熱海のちょっとした名所となっています。
「うろこ屋旅館」は秀哉が亡くなる一年余り前の、昭和13年に大幅な増改築が行われ、急な斜面を利用した四階建て(一部三階建て)の変則的な構造。二階が玄関で屋上庭園を備えた旅館でした。
パンフレットの図面と現在の地図を比較してみると、「小沢の湯」近くの静岡銀行熱海支店の玄関付近が旅館の入口だったようです。
「うろこ屋旅館」は昭和19年春に発生し、八十数戸が焼失した大火により全焼。戦時中でもあり一帯は終戦まで焼け野原のままだったそうです。そして戦後、別の場所で「ウロコ屋ホテル」として営業を再開しますが、そのホテルも今は廃業しています。
現在「小沢の湯」からは高い建物が遮り海を望む事はできませんが、当時は一望出来たようで、秀哉の臨終を伝える新聞記事には、亡くなった時の様子を、部屋の窓から見える夜明けの海のように静かだったと伝えています。
0 件のコメント:
コメントを投稿