松平周防守康任上屋敷 |
松平周防守康任邸跡。敷地跡を通るに内堀通り。 |
幕府の庇護により囲碁文化が華々しく発展した江戸時代。その中でも最も豪華な碁会と呼ばれる「松平家の碁会」が天保6年(1835)7月に老中首座の浜田藩主・松平周防守康任の屋敷で開催されました。
対局は、名人碁所の本因坊丈和と赤星因徹戦の他に、井上因碩・安井俊哲、安井仙知・林柏栄、林元美・服部雄節、本因坊丈策・坂口虎次郎など家元四家の当主、跡目クラスが一堂に会する大変豪華なものでしたが、その裏ではそれぞれの様々な思惑が絡みあっていたと言われています。
名人碁所への就任を狙っていた本因坊丈和は、井上幻庵因碩らと対立する中、天保2年(1831)に「天保の内訌」と呼ばれる策略によって争碁を打つ事なく、幕府から名人碁所へ任命されます。
各家元は反発したものの将軍の指南役でもある碁所は御止碁と呼ばれ、御城碁で他の棋士と対局することが無いため、争碁により退任を迫る事も出来なかったそうです。
そのため家元達は、松平家の碁会に丈和を参加させ、打ち負かすことで名人の資格はないと公儀に訴えようとしたと言われています。ちなみに碁会を取り仕切った浜田藩の国家老・岡田頼母は安井門下五段で、碁会ではした。
一方、主催者である松平家にもある事情がありました。寺社奉行、大坂城代、京都所司代などを歴任し、碁会が開催される前年には老中首座に就任した石見浜田藩三代藩主・松平周防守康任ですが、当時浜田藩は財政難から竹島(現在の竹島ではなく鬱陵島)にて密貿易を行っていた事が露見。事件には頼母が関与し、康任も黙認していたと言われていました。
また松平康任は、但馬出石藩の筆頭家老・仙石左京の息子へ姪を嫁がせていましたが、この出石藩で起こった御家騒動(仙石騒動)では左京より賄賂を受取り、有利な取り計らいをしたと言われています。
そして康任を追い落とし政権を掌握しようと考えていた老中・水野忠邦は、この騒動を利用しようと左京を取り調べの末に処刑。康任も、その責任を問われることとなります。
国家老である岡田頼母は、これらの諸問題に対応するために江戸へ赴く口実として碁会の開催を利用したと考えられています。このように碁会は様々な思惑が絡み合い開催されたのです。
丈和への刺客として選ばれた幻庵因碩の弟子・赤星因徹は七段ながら実力八段と称される強豪で、対局は赤星優勢のまま進みますが、丈和は有名な「丈和の三妙手」を放ち逆転勝利。敗れた赤星は血を吐き、二ヶ月後に亡くなるという壮絶な結末を迎えたことから、この一戦は「吐血の局」と呼ばれる名局として語り継がれています。
対局に勝利し、他の家元の思惑を退けた丈和ですが、その後、林元美が八段昇段を条件に丈和の名人碁所就任に協力したのに約束を反故にされたと訴えたこともあり、天保10年(1839)に碁所を返上して引退。
また、碁会を取り仕切った岡田頼母は、一旦国元に帰りますが、翌年、事情聴取のため幕府より江戸への上向が命じられたため切腹しています。
そして藩主の松平康任は、老中を退き永年蟄居を命じられて隠居。家督を継いだ次男の康爵へは陸奥棚倉に懲罰的転封が命じられています。
一方で康任を失脚に追い込んだ水野忠邦は、後に老中首座に就任し、「天保の改革」に取り組んでいくことになるのです。
ところで、江戸時代最大の碁会と呼ばれた「松平家の碁会」の開催場所はどこだったのでしょうか。松平家の屋敷は当時、西丸下(現・皇居外苑)に上屋敷、木挽町五丁目(現・新橋演舞場)に中屋敷、鉄砲洲(現・聖路加国際病院)・戸越村(品川区戸越)に下屋敷がありました。なお西丸下の上屋敷は、老中や若年寄が、登城しやすいように幕府より貸与された役宅であり、本来の上屋敷は当時の中屋敷だったそうです。
推測ではありますが、棋譜には単に松平周防守邸と書かれていて中屋敷や下屋敷と記されていない事から、この場合、一般的には上屋敷を指す事が多かったと言われています。
松平周防守康任の失脚は免れないという情勢で碁会は老中退任記念として開かれたという説もあり、退去間近の上屋敷が会場という説に否定的な意見もありますが、老中首座に就任したばかりであった松平康任には退任の意思がなかったという研究者もいて、個人的には碁会は老中首座としての権威を見せつけるために西丸下の上屋敷で開催された可能性の方が高いと考えています。
余談ですが、当時の地図を確認したところ、松平康任を追い落とした水野忠邦の屋敷は、皮肉なことに松平家上屋敷の隣にありました。また、水野忠邦の屋敷は後に老中・安藤信正の屋敷となりますが、信正は文久2年(1862)登城のために屋敷を出た直後に水戸浪士の襲撃を受けて負傷。和宮降嫁など公武合体を推進してきた安藤信正は「坂下門外の変」と呼ばれるこの事件により罷免されています。
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