江戸城天守台 |
囲碁や将棋の愛好家であった徳川家康が江戸幕府を開くと、有力棋士達が江戸へ招かれ幕府より扶持をもらい、御前試合が行なわれるようになります。
やがて家元制度が確立し、本因坊をはじめとする家元四家の当主クラスは毎年江戸城に召集され、御城碁が定着していきます。
家元は寺社奉行の管轄下に置かれたため、御城碁は寺社奉行の呼び出しという形式で行われ、将軍自身が観戦することは少なかったものの、老中などが代行として列席していました。
白書院と黒書院のあった場所 |
御城碁は慣例として江戸城の中奥にある「黒書院」で開催されていましたが、「白書院」や「帝鑑之間」で行われる事もありました。
黒書院と白書院は、共に将軍の応接所ですが、白書院は公式行事で使われ、黒書院は私的目的で使われていたそうです。また、帝鑑之間は白書院に隣接していた城持譜代大名が詰めていた部屋との事です。
江戸城跡である現在の皇居東御苑は、遺構を埋め立てて造成されているため当時の名残りはほとんどありませんが、様々な資料により、黒書院や白書院の場所を特定することが出来ました。
松の廊下跡 |
まず、「白書院」は、諸大名が一堂に会する「大広間」と、忠臣蔵で有名な「松の廊下」で結ばれていたそうで、松の廊下跡に碑が建立されているため容易に特定する事が出来ます。
白書院跡 |
具体的には、松の廊下跡である小路から広い道に合流するあたりとなります。
また「帝鑑之間」は「白書院」の南東側に接していた部屋であったため、白書院と同一区域と言えるかもしれません。
黒書院跡 |
通常、御城碁が開かれていた「黒書院」は、白書院跡より天守台側にあり広い道から右側へ道が分岐している辺りになります。
約230年余りに渡り行われた御城碁は、嘉永2年(1849)から文久元年(1861)にかけて本因坊秀策が前人未到の19連勝を達成した後、幕末期の混乱により元治元年(1864)にその歴史に幕を閉じています。
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