2022年1月19日水曜日

吉川が橋を引きたる陣構え 馬ノ山古戦場

 

馬ノ山展望台

説明版

東郷湖(右手に橋津川)

ハワイ風土記館

馬ノ山古墳群(橋津古墳群)9号墳

 私は知りませんでしたが、碁や将棋の対局で「背水の陣」に相当する一手を「吉川が橋を引きたる陣構え」と言うそうです。
 吉川とは毛利元就の次男、吉川元春の事で、天正9年(1581)伯耆国の東部、現在の鳥取県東伯郡湯梨浜町において、元春が織田軍の羽柴秀吉と戦った故事にちなんでいるそうです。
 織田信長の命で中国地方へ侵攻した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、天正8年(1580)毛利方の因幡国守護・山名豊国の居城、鳥取城を攻め、降伏した豊国は織田方につきます。
 秀吉が去った後、毛利の使者が訪れ鳥取城は再び毛利方へ寝返りますが、豊国は密かに織田方に内通していた事が発覚して城を追われます。
 そして主君を追放した旧山名家家臣の要請により毛利は吉川家の一門、吉川経家を城主として送り込みます。
 経家は元春が養子となり跡を継いだ安芸吉川氏(宗家)の分家である石見吉川氏の当主で、文武両道の名将として知られていました。
 翌天正9年(1581)城を奪回するため秀吉は再び鳥取城を攻めますが、城攻めには元城主の山名豊国も加わっています。後に秀吉、家康に仕えていく豊国は、囲碁の逸話も多く残されている人物です。
 秀吉の第二次鳥取城攻めは、事前に商人に命じて城下の米を高値で買い取り、兵糧を減らしたうえで城を包囲。兵糧攻めで多くの餓死者を出し、後に『鳥取城の渇え殺し』と称されるほど凄惨なものでした。
 城主の経家は、もともと鳥取にゆかりのない雇われ城主であり、その命を惜しんだ秀吉も城を出て毛利へ帰るよう説得しますが、経家はそれを断り家臣の命と引きかえに切腹し、城は開城されます。
 城が落ちたその日、救援に向かっていた吉川元春は、兵六千を率いて東伯耆の東郷湖北岸にある馬ノ山に着陣。毛利輝元は出雲の富田城に着き、小早川隆景も出陣していましたが救援には間に合いませんでした。
 鳥取城を落とした秀吉は、直ちに東郷湖の南側にある羽衣石城へ立てこもる織田方の南条元続を救援するため、六万の兵を率いて伯耆へ入り、東郷湖畔の御冠山に陣を敷きます。
 その動きを知った元春は馬ノ山に留まり両軍は対峙しますが、元春は圧倒的な兵力差を前にしても怯む事なく、退路となる橋津川の橋をことごとく落とし、数百の船はすべて陸に揚げ、櫓は残らず折り捨てるなど正に背水の陣を敷いて戦いに臨みます。
 元春の覚悟を知った秀吉は、このままでは自軍にも多大な被害が出ることを察し、羽衣石城へ支援物資を運び込み城を出ないように指示して姫路へ引き上げていきます。
 一方、元春も秀吉の退却を見届けると軍を出雲へ引き、秀吉・元春の両雄は互いにその器量を認めあって戦わずして別れたのです。
 そして、この一戦で吉川元春の評価は益々高まり、碁や将棋の世界で背水の陣に吉川の名が使われるようになったそうです。
 元春が陣を敷いた馬ノ山の丘陵は標高107m。馬ノ山古墳群(橋津古墳群)と呼ばれる、古墳時代前期(4世紀)から後期(6,7世紀)にかけての大小25基の古墳が点在しています。
 元春は古墳の上に陣を敷き、陣の前に堀を掘り、土塁を築いて防御を強化していたと伝えられています。
 現在、馬ノ山は、ハワイ風土記館などがある「馬ノ山公園」として整備されています。
 馬ノ山からは吉川元春も眺めたであろう東郷湖を眺めることができますが、湖畔にある「はわい温泉」の「望湖楼」は棋聖戦や名人戦などで度々会場として使用されています。


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