本因坊屋敷跡
高札(説明版)
かつて、囲碁のタイトル戦に名を残す家元・本因坊家の屋敷が両国橋近くの本所相生町、現在の墨田区両国3丁目にありました。
囲碁や将棋の愛好家であった徳川家康が慶長8年(1603)に江戸幕府を開くと初代・本因坊算砂を初めとする有力な棋士達は江戸へ招かれ滞在するようになります。
ただ、当時の棋士達はあくまで京都を拠点に活動していて、江戸へは定期的に出向いていたそうです。
棋士達には江戸での滞在先として屋敷が与えられますが、その場所は、当初は江戸の町づくりの起点となった日本橋付近にあり、その後、芝金杉などへと移転していきます。
そして、四世本因坊道策の時代になると家元制度確立と共に、棋士達の拠点も江戸へと定着。本因坊家の屋敷も元禄元年に、道策が本所相生町に拝領して以降、幕末まで再移転することはありませんでした。
しかし、十世本因坊烈元は湯島石坂下で暮らし、十二世本因坊丈和の時代には上野の車坂下の道場で本因坊秀策らが修行していたと記録されていることから、必ずしも、当主が本所の屋敷で暮らしていたとは限らないようです。
現在、両国の本因坊屋敷跡にはマンションが建ち、その前に立てられた本因坊屋敷跡の高札が、かつてここに屋敷があったことを示しています。
その斜め前には忠臣蔵で有名な吉良邸正門跡の高札が立ち、すぐ近くに吉良邸跡に造られた「本所松坂町公園」があることからも分かるとおり、本因坊屋敷は吉良邸の目の前にありました。
したがって本因坊家の人々は、赤穂浪士の討ち入りを目撃していた可能性もあります。ちなみに、討ち入りが行われたのは元禄15年12月14日(1703年1月30日)。同年3月26日(1702年4月22日)に碁聖と謳われた本因坊道策が亡くなり、家督を継いだ当時13歳の本因坊道知は、井上道節因碩を後見として迎えていました。
その後も本所の拝領屋敷は幕末まで存在していきますが、後ろ盾となっていた幕府が崩壊すると明治2年(1869)に明治新政府は家元の俸禄減額を決定。そのため、当時の当主・本因坊秀和は拝領屋敷の一部を借家とし家計を維持していきます。
しかし、直後にその借家が火元となり邸宅が全焼し、秀和は倉庫で雨露をしのぐ苦しい生活に追い込まれます。
見かねた伊藤松和ら弟子達が再建の支援を申し出ますが、秀和は類焼により被害を受けた人もいるのに、火元の自分だけが早々に再建するわけにはいかないと辞退し、本因坊屋敷はその歴史に幕を閉じます。
その後、本因坊家は苦難の日々を過ごしていき、後に秀和の次男、本因坊秀栄により再び隆盛を迎えますが、それはまだ先の話しとなります。
本因坊家の長い歴史を見守ってきた屋敷跡の周辺には、大相撲発祥の地である回向院や、勝海舟生誕地など、数多くの史跡がありますので、歴史好きの人は、両国駅あたりでパンフレットを入手し、史跡巡りをしてみるのもいいでしょう。
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